お茶零した。

作家・尼野ゆたかの日記です

音楽を聴くというのはどこまで行っても個人的なもの、だけど

amanoyutaka.hatenablog.com

昨日の日記の話を知人としていて、知人がオーディオマニアの知り合いに「低音は一番コスパ良く出しやすいので、低価格帯の品はとりあえず低音を出して誤魔化す」という話を聞かされたと教えてくれました。

リーズナブルに一定の水準を超えられるならそれでいいじゃないか、何がいかんのだと不思議に思ったのですが、しばらく話を聞いているうちに少しだけ分かりました。

オーディオマニアの人たちは、「簡単には実現できない『よい音』を、様々な機材を駆使しいかに実現するか」というのが大きな目的の一つであるため、妥協的な音作りは志が低く感じられる、ということのようです。なるほど、なるほど。

 

関ジャニエイトとIn Flamesの距離 

さて、昨日の日記で「音楽を聴くというのは個人的な営みである」と書きました。同じ音楽を同じように聴いても、感じ方は同じではないという話ですね。

関ジャニエイトが大好きな下の妹が彼らのデビューシングル"浪花いろは節"を聴いて得られる楽しさを、尼野ゆたかは完全に理解することができません。同様に、尼野ゆたかIn Flamesの"Moonsheild"を聴いてその悲哀に打たれていても、下の妹からすると「変なおっさんが変な声で叫んでいる」くらいにしか思わないでしょう。好み、経験、思い出、その他様々な要素が複雑に絡み合い、一つの音楽は一人一人異なる感慨なり反応なりを生み出すということですね。

 

ただこれは、だからといって他人と音楽を分かち合うのは無駄だということを言っているのではありません。むしろ、一人一人違うからこそ、共有することに意味が生まれるのではないだろうかと考えています。

 

音楽が繋ぐもの

たとえばとあるメタルバンドのライブに尼野ゆたかが行くとします。会場に数百くらいお客さんが集まったとしましょう。(バンドによって大分違ってきますが)ある程度以前から活動してるメタルバンドであれば、客層は男性が大目で女性が少なめ。平均年齢は高く、尼野ゆたかは会場では若者の部類に入るというのが大体の所でしょう。

尼野ゆたかとしてはメタルファンの高齢化を憂えてしまいますし、男女比のあまりの偏りにもいかがなものかという気持ちになってしまいますが、オーディエンスの中には「メタルの何たるかが分からん若造など来なくともよい」とか「硬派なメタルのライブに女はいらん」と正反対のことを考えている人も当然いることでしょう。

また、同じような音楽が好きなはずなのに「デスボイスは音楽ではない」とか「昔ながらのメタルはダサくて恥ずかしい」とかまったく違う価値観を持っていたり、「ライブを行うアーティストのどのアルバムが好きか」「問題作とされるアルバムがあるが、それをどう評価するか」とかでも意見が分かれるであろうことも十分にあり得ます。

たかがメタルについての考え方でもこうなのです。政治なり人間観なり人生観なりテーマを広げれば広げるほどに一人一人の違いが浮き彫りになり、遂には万人の万人に対する戦いが勃発してしまうことでしょう。

 

しかし、そんなばらばらの人たちの集まりであっても、ひとたびライブが始まりバンドがよい演奏を繰り広げれば一つになります。みなそれぞれに熱くなり、あるいは胸を打たれ、音楽に身を浸していきます。「好きなかたちの音楽」という緩やかな糸が結び合い、本来まったく異なる人たちが繋がっていくわけです。

これは、一人では決して得られない体験です。同じ経験を同じ空間で他の誰かと分かち合うことで、初めて生まれる心の動きなのです。

インターネットの発展でどんどん音楽に触れる敷居がどんどん下がっていく中、ライブやフェスの集客力が衰えないというのも、やはりこの辺が大きいのではないでしょうか。「生」はまだまだオンラインでは代替出来ないのですね。

 

関ジャムでのジャパニーズヘヴィーメタル特集はまだか

先に例を挙げた下の妹との方向性の違いも、場合によっては多少なりとも折り合いがつくかもしれません。ようは、音楽の好きなかたちがどこかで交わればいいのですから。

たとえば関ジャムという関ジャニエイトが司会を務める音楽番組がありまして、番組の最後にゲストと演奏を行っているのですが、そこで聖飢魔IIの"1999 Secret Object"とかXの"Rusty Nail"とかやってるのを一緒に観たら、一時的にでも何かを共有できるかも……しれない……?