お茶零した。

作家・尼野ゆたかの日記です

はやりとかすたりとか最初に言い出したのは誰なのかしら

昨日の日記が一部バグっていました。記事が消えた痛手がいかに大きかったのかが分かります。しくしく。

 

 

流行の見えざる手

前のブログでも書いた話ですけれども。

 

流行っていうのは本当に目まぐるしいです。ファッション、髪型、音楽、スポーツ、メイク、イラストの絵柄、物語のタイプ、スラング、ネットでの口調。ありとあらゆる面で、トレンド*1とされるものは次々に移り変わっていきます。

必ずしも、悪いことではありません。文化の新陳代謝が行われていて、新しいものが生み出される土壌が常に用意されているとも言えます。経済の循環を促すという意味では、資本主義的にも正しいことなのでしょう。

 

しかし、何か腑に落ちないものを時折感じます。アニメやバンドTシャツや餃子の王将など、それまでお洒落とは程遠い存在であったものでも、流行っているとなれば一も二もなく飛びつく人が少なくないのは不思議です。なんだか無理しているようにも感じますし、実際そういうところもあるでしょう。なぜ、そこまでして流行を追い続けるのでしょうか。

 

「ダサい」という十字架

ありとあらゆる物事が時代遅れになっていく中、一つ常に揺るがないものがあります。

それは「ダサい」という感覚。流行に聡い人たちの間だけではなく、幅広く受容されているように思います。オタ文化界隈でも、「古臭い」「ダサい」という批判は頻繁に見られますし、そういう流行に背を向けた存在であったはずのHR/HM界隈でさえ、若いファンは古典的なバンドや作品を「ダサい」と揶揄します。

 

しかもこれ、現代に始まったことではないんですよね。

Wikipediaの「ダサい」の記事に引く『日本俗語大辞典』によると1970年代前半から普及し始めた言葉だそうですが、その遥か前から同種の感覚は存在していたはずです。江戸時代には既にマーケティングが猛威を振るっていたことは、「土用の丑にうなぎ」*2が突然定着したということからも分かりますし、枕草子にも季節外れの色合いの服装しているのはすさまじきもの*3というくだりがあるくらいですし。

 

そんな諸々を眺め回しているうちに浮かび上がってくるのは、ダサいとされることへの怯えにも似た感情です。ダサいとされる物事を忌避する一方で、自分も乗り遅れれば忌避される側に回ってしまうという焦燥感。

つまり、流行を追いかけているつもりで、その一方で常に「ダサいと言われる恐怖」に追われているというのが本当のところなのではないでしょうか。必死で流行りを追うその底に流れるのは、バカにされないようにという強迫観念なのかもしれません。

ダサいという表現がダサくならない理由も、そこにあるのかな? なんて風に思いました。

 

もう少し、自分の好きなものは自分で決めるというのもありな気もするんですけどね。仕事ではトレンドに気を配らないといけないので、気持ちは分かるんですが。

 

尼野ゆたかを追うものは

さて。そんな自分を追ってくる脅威は、明日一泊で実家に帰って木を切るというタスクです。

 

 

詳細はこの記事の途中から。 

 

ホームセンターで売ってるようなのこぎりで頑張ってぎこぎこ切るという大変な肉体労働です。

仕事にかまけて体力作りを怠り気味だった報いを受けることになりそう。幸いなのは天気予報が曇りっぽいところでしょうか。何にせよ頑張ってまいります。

 BGM: I Wanna Be Loved / House Of Lords

 

 

 

Web拍手のお返事
01:08 http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1345.html
消えたのはそのキジじゃない! トキじゃあるまいし、消滅の危機にさらされるほど個体数減少してないでしょう!

 

 

 

 

*1:この言葉もまた復権しましたよね

*2:かの平賀源内が仕掛けたことで有名ですね

*3:すげーという意味ではなく興ざめで白けるみたいな感じ

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